青森ねぶた2009 Vol.18  〜 シリーズ 昨日[5月12日]のねぶた小屋 vol.11 〜
写真1 本日のテーマは、昨日製作した豫譲(よじょう)が持ち上げるこの車輪。 
撮影日/平成21年5月12日
Picture Date
May 12, 2009
昨日の『北村隆ねぶた』の
進捗状況です!
  たった1枚の写真が、観る人間の人生観を変えることがある。
  特に撮影することを生業とする人間は勿論、撮影を趣味にする人間ならば、そんな衝撃的な写真との出逢いは、必ずあったに違いない。
  私が最も衝撃を受けたのは、ウェブを徘徊している時に偶然眼にした、モノクロ映像だった。写真家である管理人自身が、母親のデスマスクを撮影したものである。白と黒の濃淡が描く亡骸の美しさに、しばし私は見とれた。いや、美しいという言葉には御幣があるかも知れない。私はその老いた横顔に、彼女の人生と、息子である撮影者の慈愛を読み取って感銘していたのだ。
  何と安らかな顔なんだと思ったと同時に、おそらく普通の人間ならば、決して人目にさらすことをしたくはない肉親の、できるだけ早く自らの記憶からも消し去ってしまいたい映像なのにも関わらず、撮影しているという管理人の神気にも共感したのである。 
  これが本当のプロのカメラマンなのだと思った。私にはとうてい敵わないとも感じていた。同じく肉親のデスマスクを撮影したアラーキーこと荒木経惟のそれよりも、格段に管理人の撮った写真には“味”があった。
  親の死に際しても、常にカメラを手放さない気概と観念を持つことも必要なのかも知れない・・・。
 
  このような前置きを書いたのには訳がある。
  昨日、『ヤマト運輸ねぶた実行委員会』のねぶた製作二日目を迎えた日、撮影者である私に、力仕事の手伝いをするお鉢が回って来た。
「写真なんか撮ってなくていいがら、こっちゃ来て手伝え!」
  北村氏の檄が突然飛んだ。
  一昨日製作した車輪の枠組みを、豫譲(よじょう)の頭上に載せる作業に駆り出されたのである。太い針金と数十本の木材で組まれた車輪は、たとえ半輪だけであっても、北村氏と三人のアシスタントの計4人だけで、たやすく持ち上げられる重量ではなかったのである。
  私は「えっ!?此所は、最も撮影したい場面じゃないですか!?」と愚痴を言いつつも、カメラを置いてその力仕事に加わった。高価なカメラを壊してはならないと思ったからである。
  そもそもその気持ちが誤りだった。プロを自任する人間ならば、カメラを持ったまま仕事を手伝うべきであり、隙さえあれば、たとえブレても、僅か一瞬だけでも、カメラを壊してさえも撮影すれば良かったのだと気付いた時には、もう遅かった。既に豫譲の頭上には円盤の半分が持ち上げられた後だったのである。(写真28)
『しまった!どんなことをしてでも撮れば良かった!』と地上に降りて猛省していた。
  しかし、その後悔は決して無にしてはいない。
  続く車輪の半分を持ち上げた時には、機材を壊すリスクを抱えつつ、カメラを胸にぶら下げて力仕事に加わったのである。その折に撮影したのが写真31,32,33,34だ。
  余りの力仕事に、車輪を持ち上げた私の左腕が嗤っていた。スタミナが切れて、カクカク震えだしたのだ。もはや持ち上げ続けていることなど不可能に思えた。それでもどんな映像が映るかも判らないまま、右手でノーファインダのまま(ファインダーを覗かずに直感だけで)シャッターを押し続けた。腕が使えなくなる寸前、木材の枠組みを這い上がり、今度は肩で車輪を受け止め、撮影し続けた。
  ん・・・。結果としては、決して面白い映像にはならなかったものの、それでも撮ったという満足感だけは残った。
『写真作家』を自称する私が、連日撮り続ける映像群は、それなりの映像群でなければならないとの意気込みは、今後も忘れてはならないと再認識させられた瞬間でもある。
  このような自負があるからこそ、大枚の撮影維持費と膨大な撮影時間を投じ、ただただ『北村ねぶたに惚れた!』というだけで、撮り続けていられるのかも知れない。
  それが、決して割に合わない撮影をし続けている、せめてもの私の“プライド”なのだから・・・。

■ 紹介が大変遅くなりましたが、私が撮影に加わった塩谷靖子著『寄り道人生で拾ったもの』が4月15日に『小学館』より刊行されています。興味のある方はぜひ書店で手に取り、ご覧下さい。撮影者である私の名前も、写真下に記載されております。刊行に際し、小学館/編集長の宮保様には、大変お世話になりましたことを、心より感謝申し上げる次第です。
 以下の文面は、アマゾンでの紹介文より抜粋致しました。

『全盲の声楽家、塩谷靖子が瑞々しいエッセイで綴る自らの半生記。
失明前の思い出、8歳で失明した頃のこと、盲学校での生活、初恋、数学に魅せられ東京女子大学に入学してからの学生時代、大学卒業後日本初の盲人プログラマーとして点字変換ソフトの開発を成し遂げたこと、その後の結婚、子育て。
そして、幼い頃からの夢だった声楽を42歳から始め51歳にして日本で代表的な奏楽堂日本歌曲コンクールに入選を果たし、その夢を実現するまでの著者の「寄り道人生で拾った」数々の宝を静謐(せいひつ)な文章で綴っています。』

写真2 こちらは、『青森山田学園』の閻魔大王。電球が付けられていた。
写真3 真新しい裸電球が入った。近年のエコ電球の場合は、1個1000円近くもするため、できるだけ再利用されるという。
裸電球の場合は、取り外す時間もないため、そのまま廃棄される場合も多いが、最近は省エネ傾向が強く、極力再利用されるらしい。
写真4 これも『青森山田学園』のお経部分。蛍光灯が入り、裸電球よりも、更に明るく輝くように設定されている。
写真5 こちらは『ヤマト運輸』のねぶた小屋の様子。豫譲(よじょう)の顔の位置が決まったら、今度はボディーを作り、位置を固定させてゆくのだ。
写真6 豫譲(よじょう)のボディーは、北村氏の緻密な計算により決められる。木材に書かれた数字は、その身体の大きさを描いたものである。
写真7 針金と針金を結び、一本の長い針金とした後に、豫譲(よじょう)のボディーが形作られてゆく。
写真8 豫譲(よじょう)のボディー部分の製作を、針金を使いしている北村氏とアシスタントたち。
写真9 豫譲(よじょう)の面の高さや方向を手直ししている北村氏。
写真10 ノコギリを使っている間、木材が動かぬように固定している北村氏。
写真11 木材を注ぎ足しては固定し、本体を強固にしつつ、これから始まる“本日のメイン・イベント”に備えてゆく。
写真12 豫譲(よじょう)の手と腕とを結ぼうとしている吉町君。
写真13 吉町君は手慣れた動きで手首と拳を繋いでゆく。
写真14 やっと豫譲(よじょう)の左手は繋がった。
写真15 仕上がったら、木材を差し込んでゆく。
写真16 できあがった豫譲(よじょう)の左手を運ぶ。
写真17 画面手前の小笠原さんは、豫譲(よじょう)の左手の向きを考えている。
写真18 最後の調整は、もちろん北村氏本人が行う。
写真19 今度は、豫譲(よじょう)の刀を握る右手をはめている。 
写真20 平らな木を、何やら切断している北村氏。
写真21 刀型の針金に、木材を入れてゆく。
写真22 先端は刀の形に合わせて、切りそろえる。ねぶたには刀が常に使われるので、これは一回製作すれば、後は応用するだけだ。
写真23 平らな木材を、何やら切断している小笠原さん。
写真24 『写真23』で切った平らの木材は、縦に入れて、ねぶた(豫譲)本体が重さに耐えられるように、強度を持たせるのだ。
写真25 豫譲(よじょう)の背中の必要のない木材を外し、切断してゆく。
写真26 豫譲(よじょう)の背中の木材を切断した様子。車輪を載せやすくしたのだ。
写真27 さあ、これから豫譲(よじょう)の頭に、この車輪を載っけるぞ!
写真28 なんとか半分は豫譲(よじょう)の頭に載っけることができた。
写真29 カメラを取りに一端地上に降りて、再びカメラを手に昇って撮ったのがこのショット。載せている瞬間を撮れなかったことに、猛省する。
写真30 まだ力仕事は終わっていませんよ。あと半輪が残っているんです。
写真31 さあ、残りの半輪を豫譲(よじょう)の頭上に載っけるぞ!
写真32 移動しながら撮影した1ショット。
写真33 「は、はやく車輪を止めてくれないと、ぼ、僕の背中、潰れてしまいます!」
写真34 木材で地上と頭上の車輪を固定してゆく。
写真35 二つに割った車輪が、なかなかくっつかずに、この写真ではわかりにくいが、出っ張った木材を切っている北村氏。
写真36 さきほど作っていた刀を豫譲(よじょう)に握らせる北村氏。
写真37 勺棒で豫譲(よじょう)の高さを測っている。11,5勺が限界値。
写真38 豫譲(よじょう)の背中に馬車の車輪が、こうして無事に載った。しかしまあ、北村ねぶたは、さすがにすさまじい!
 
 
 
 
使用カメラ
撮影カメラ
EOS 5D MarkU