※ このページは、2000-2004年まで続いたHP『津軽海渡のデジカメ紀行』に掲載していた写真や文面を、そのまま復刻させたものです。
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本日【2002年3月1日(金曜日)】の1枚の写真は!?
 
 
【柴灯(せど)まつりV なまはげの歴史】
 
 
  本日は、8枚の写真を掲載しました。


  JR男鹿駅から雪道を揺られ車で40分、長く曲がりくねった緩い勾配の山道を、真山山腹へとずいぶん上り詰めたところに、霊験あらたかな社はある。

  人里離れた昔であればかなり秘境に位置すると思しき真山神社は、その割には萎びた構えではなく、仁王を設えた山門は深厳で、男鹿の平泉とさえ謂わんがばかりの気品さえ感じさせる。(写真2)

  仁王門から更に奥へと続く雪降る石段(写真3)を登ると、そこは神々しい蒼き闇が境内を包み(写真4)、何か得体の知れぬ"もののけ"が跋扈(ばっこ)し、観衆の熱気を誘いさながら燃え盛る松明(たいまつ)の炎と共に乱れ翔ぶ、霊体が集う遊戯場と化しているような賑やかさがある。(写真5)

  この境内で、毎年二月、あのナマハゲが登場する『柴灯(せど)祭り』が毎夜に渡り三日間行われ、決して広くはない境内に、一晩に10000人以上の観客が集うと謂うから驚きである。
  昭和五十三年には、このナマハゲは、『男鹿のナマハゲ』の名称で、隣県の『ねぶた』や『ねぷた』と同じように、国の重要無形文化財に指定された。

  真山神社は、昔から山伏などの修験道が暮らす山岳信仰に支えられた神社であり、代々この地方を治める有力大名によって手厚く保護されてきた。
  日本三大美林に数えられる秋田杉に囲まれた境内では、平安時代の長治年間(1104〜1106)に始まったとされるこの祭りが、九百年の時を経て、現代風に姿を変えて今に伝えられている。
  長治年間と言えば、その近年に『後三年の役(1083〜1087)』が奥州で起こり、のちに三代に渡って栄華を極める藤原清衡がその礎を築き始めた時分であり、この後、鎌倉幕府の創設者・源頼朝に攻め落とされるまでの百年間は比較的平穏な時を奥州は迎える。

  ナマハゲの歴史を伝える前に、まずこの神社がある男鹿半島の歴史から伝えねばなるまい。
  多くは三浦半島のように、岩盤でできた強固な半島は、今から6000万年前に形成されたという。
  この地に人間が住み始めたのが、今から一万年ほど前からといい、8000年前の土器や、6000年前の青竜刀(中国)型石器も地中から発見されている。
  同じ青竜刀型石器は、青森県や遠くは蝦夷(北海道)からも発見されているが、古来よりこの地域は対岸の中国とも交易が盛んであったという証であり、ナマハゲ渡来伝説に繋がっているともいえる。
  因みに現在の日本刀が弓なりに撓った形となっているのは、馬上での戦いで使用した際、敵に当たった折に反動の少ないこの青竜刀を模して造ったとされ、奥州に闊歩した蝦夷(えみし)との戦いで、馬術に優れ青竜刀を使う彼らの強さを、中央から派遣された武士達が研究し、試行錯誤の末に産まれた所産とされている。
  それほどまでに、当時の奥州は大陸からの文化が伝わり、さまざまな地域で独自の文明を築く、群雄が割拠する戦場でもあった。

  ナマハゲの語源は、冬の囲炉裏の前に長時間暖をとっていると、手足に火斑ができる。一種の火傷であるが、この火斑を地域によって、ナガメ、ナゴミ、アマミ、ナモミョウ、ナモミと呼び、外で働かないでいる怠け者の象徴とされた。
  怠け者から、このナモミを包丁で剥ぎ取り、その痛みを与えることによって渇を入れるという行為が、"ナモミ剥ぎ"と言い、それが訛り"ナマハゲ"になったとされている。
  ナマハゲが手に包丁を持っているのはそのためであり、もう一方の手に握られた桶は、人々から貰った土産物(多くは酒)を入れて山に還ってゆく際に使われるのだという。(写真7と8を参照)

  ナマハゲは古来は神とされ、神の顔は誰も見たことがないから、ナマハゲの被る面の形に、これが正しい(神)という顔はないのだという。だから現在もナマハゲの面は、どれも千差万別なのだ。 
  それでは、なぜにナマハゲはあのような怖い顔をしているのだろうか?
  怠ける人間を睨み、威嚇する意味で怖い顔としたらしいのだが、それはナマハゲの起源に由来する。

  ナマハゲの起源には、大きく分けて三つある。
  一つは漢の武帝が白鹿に乗って、五匹の蝙蝠を従えて男鹿にやって来た。後に、この五匹の蝙蝠が鬼となったとする説。
  二つ目は、鬼のような大男(異邦人)が西海岸に打ち上げられ、男は肥満、赤毛で青い瞳を持っていた上、外国語ともいえる訳の解らぬ言葉で大声を発したとされる説。
  三つ目は、真山で修行する山伏が、その姿で下山してきた様子を鬼としたとする説。
  以上の三つだが、より現実的なのは、二つ目と三つ目であり、私自身は他の文献からも二つ目の異邦人説が正しいのではないかと思う。

  これに因んでいることなのかも知れないが、平安時代の渡党(北海道道南)に棲む人々は、交易が盛んなこともあり、言葉もおおよそ通じるが、全身に毛が多いと強調されている。
  唐子(北海道中央や道北)の人間に至っては、言語不通、農業を知らず(すべて狩猟)、人肉まで含めて肉食し、人間の姿から遠いとされてきた。
  このような地域に棲むロシアの血筋を持った外国人が、この男鹿半島まで流されて来たのではないだろうか。
  現に、その後の彼は、神社に遣え、五社堂の石段までその馬鹿力と外国から持ち込んだとされる滑車と特殊なロープによって造ったという伝承が残っているほどである。
  その外国人は、その働きようから村人にも好かれ、時折村に呼ばれては馳走を振舞われ、やがて顔を真っ赤にし、山に還って行ったらしい。

  これらの伝説が、人肉を食するとされる"鬼のように巨大で赤ら顔した毛深い異邦人"というイメージと重なり、悪いことをしたり、怠けたりしていれば、山から懲らしめにやって来るという、大人たちがよく使う子供達への戒めの物語として代々子孫に伝わり信じられ、現在のナマハゲ像を生んで行ったのかも知れない。

  遠い国から日本に流され、その後、この地で死んだであろう気の優しい力持ちの外国人は、今もこの真山のどこかで眠っているに違いない。
  このナマハゲ神事は、もしかしたら、この地方で死んでいった異邦人への鎮魂の行事なのかも知れない・・・。

〔本日の写真は秋田県男鹿市にある真山神社境内にて撮影〕

撮影日〔2002年2月9日〜10日〕

【写真1】
 
【写真2】
 
【写真3】
 
【写真4】
 
【写真5】
 
【写真6】
 
【写真7】
 
【写真8】
 
 
使用機材
撮影カメラ
Canon EOS 1D